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伊奈町

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伊奈忠次について

[2019年4月16日]

ID:4028

概 要

 伊奈忠次は、天文19年(1550)、伊奈忠家の嫡男として三河国幡豆郡小島(みかわのくに はずぐん おじま)(愛知県西尾市)に生まれました。初めは「家次」、のちに「忠次」と名乗っています。徳川家康の嫡男松平信康に仕えていましたが、天正7年(1579)信康が自害に追い込まれると三河を出奔(しゅっぽん)し、父とともに堺の伯父貞吉の元へ身を寄せます。同10年の家康堺訪問の際に、本能寺の変によって伊賀越えに帯同し、徳川家に帰参して家康の家臣小栗大六の与力となりました。その後、同14年の駿府(すんぷ)移城に伴い家康の近習(きんじゅう)となり、五ヵ国総検地(ごかこく そうけんち)において才能を発揮し重用されました。
 天正18年(1590)の小田原北条氏攻めでは、駿河(するが)・遠江(とうとうみ)(静岡県)、三河(愛知県)三ヵ国の道路の普請(ふしん)や富士川の船橋の整備、軍勢の兵粮(ひょうろう)の輸送などを一手に担い、豊臣秀吉の信任も得ながら、地方巧者(ぢかたこうしゃ)としての地位を固めました。
 家康の江戸入封(にゅうふう)後は、武蔵国足立郡小室(むさしのくに あだちぐん こむろ)及び鴻巣において1万3千石(1万石とも)を与えられ、小室に築いた陣屋を拠点に、徳川家の関東支配の基礎作りに多大な力を発揮しました。
 慶長8年(1603)江戸幕府が成立すると、全国支配のため代官たちを駆使して幕領の支配にあたるとともに、治水・灌漑(かんがい)工事や検地、新田開発、年貢収取(ねんぐしゅうしゅ)など多様な農政や地方(ぢかた)支配を行うようになりました。さらに、家康が駿府に移る同12年頃には、江戸の将軍秀忠政権の中枢に参画し、単なる代官頭としての立場を超えた年寄衆(としよりしゅう)に近い役割まで果たすようになりました。
 しかし、忠次は家康が名実ともに天下人となる大坂夏の陣より5年前の慶長15年(1610)6月13日に61歳で亡くなり、勝願寺(しょうがんじ)(浄土宗、鴻巣市)に葬られました。

伊奈忠次関係略年表

伊奈忠次関係略年表
年号 出来事
天文 19(1550)
伊奈忠次、三河国幡豆郡小島に生まれる(父小島城主忠家)
永禄 6(1563)
父忠家、三河一向一揆の際家康に背き、一揆側に加担し小島を追われる
天正 3(1575)
忠家長篠合戦のとき、伊奈昭応の軍に忍んで加わり、徳川家康の嫡男信康の前で活躍する



以後、忠家・忠次父子は信康に附属する

7(1579)
信康自刃の後、父とともに堺に赴き伯父貞吉を頼る

10(1582) 6
家康の堺から三河への帰還に従い、再び家臣となる。小栗大六の与力となり三河小島郷等30貫文を与えられる

14(1586) 12 家康の駿府移城に従い、近習に列する

17(1589) 7 伊奈忠次・彦坂元正、翌年にかけて五ヶ国に郷村定書を出す一方、総検地を実施する
それをうけ、忠次・長谷川長綱ら五ヵ国の給人に知行書立を与える

18(1590) 2 小田原攻めに従い、駿河・遠江・三河三ヵ国の道路普請及び冨士川船橋の整備を奉行する


8 大久保長安・伊奈忠次・彦坂元正・長谷川長綱ら関東入封により代官頭となる。
忠次、青山忠成とともに榊原康政の指揮の下に知行のことを司る

19(1591) 閏1 忍領(松平忠吉)の検地に熊谷へ行く


6 武蔵小室・鴻巣の内で1万3千石(一説に1万石)を与えられ、小室の閼伽井坊を倉田明星院に移し、跡地に陣屋を築く

20(1592)
家康に従い、朝鮮出兵の拠点筑紫(名護屋)に行く
文禄 2(1593)
江戸千住に橋を架ける

3(1594)
利根川通りの会の川締切工事を指揮する

4(1595) 3 大久保長安・伊奈忠次・彦坂元正、家康の命により、聚楽第で秀吉を饗応するとき、諸大夫への膳部のことを司る
慶長 4(1599) 閏3 久志本氏あて知行書立に「伊奈駿河守忠次」と連署する


10 この頃までに備前守に叙任する

5(1600) 6 上杉討伐に従い、房川(栗橋)の関を守る


7 伊奈忠次・長谷川長綱ら関ヶ原合戦で小荷駄奉行を勤める


12 徳川家康、今後直轄領の支配を大久保長安・伊奈忠次・彦坂元正の三判証文をもって行うよう命ずる

6(1601) 1 大久保長安・伊奈忠次・彦坂元正の三判証文で三河・遠江の寺社への寺社領証文、東海道の各宿への伝馬定書を出す

7(1602) 10 常陸の車丹波らの一揆を鎮定する



中山道の各宿への伝馬定書を出す

9(1604)
各地の直轄領の検地を実施し(辰の御縄)、遠江・駿河・常陸・下野・下総等で年貢割付状と寺社領証文を出す



武蔵仁手村より備前堀(代官堀)を開削する。また常陸に黒子用水を開削する

10(1605)
上野惣社領の天狗岩堰を延長して、代官堀(備前堀)を開削する

11(1606)
江戸城普請により諸大名から伊豆石を請取る

12(1607)
この頃、大久保長安・伊奈忠次は二元政治の下で、大久保は駿府政権(大御所家康)、伊奈は江戸政権(将軍秀忠)に属し、各政権の中枢に参画する

13(1608)
全国に再び永楽銭通用禁止令を出す



下総の鬼怒川・小貝川流域の新田開発をし、開発人に屋敷地を与える

14(1609)
木曽川に御囲堤(備前堤)を築き、同時に般若堰・岩井堰等を築く

15(1610) 3 大久保長安・伊奈忠次、連署で甲斐の八幡神主の神職跡職状を出す(代官頭連署の最後)



この年、常陸千波湖から備前堀を開削する。上野の代官堀(備前堀)を完成させ玉村新田を開き、瀧村の江原源左衛門に井堰管理を命ずる


6 13日、江戸で伊奈忠次死去(61歳)

刊行物

『伊奈町史 別編 伊奈氏一族の活躍』

 伊奈忠次・忠治の活躍を中心に、改易されるまでの関東郡代伊奈氏、小室郷を支配した旗本伊奈氏、伊奈家の家臣や松平信綱など、伊奈氏に係る事績について、図録・論説・資料編等に分けて幅広く取り上げました。

  町史刊行物一覧はこちら(別ウインドウで開く)

伊奈町史パンフレット『伊奈氏の史跡めぐり ~伊奈氏三代を中心に~』

 伊奈町史パンフレット『伊奈氏の史跡めぐり ~伊奈氏三代を中心に~』は、伊奈忠次・忠政・忠治の伊奈氏三代について紹介するパンフレットです。また、埼玉県内及び県外の伊奈氏関係史跡についても取り上げています。
 下記にパンフレットの一部を掲載しましたので、ぜひご利用ください。

トピック

伊奈の遠祖

 伊奈氏は、藤原氏支流、清和源氏満快曾孫為公流(せいわげんじ みつよし/みつやす そうそん ためともりゅう)とも伝わりますが、小室郷8か村を知行した旗本伊奈熊蔵家譜では、清和源氏源義家流(みなもとのよしいえりゅう)の足利氏支流としています。戸賀崎義宗の5代の孫義重の子氏元は荒川姓を名乗り、四郎入道易氏の時に足利義尚から信濃国伊那郡を与えられ、在住していたとされます。易氏は嫡男易次を伊那郡熊蔵城に配し、次男易正を保科郷に住し保科氏を称したといいます。
 易次の死後、その子易次(2代)が幼かったため、叔父易正が代わって熊蔵城に住し、15歳になった時、易次に返す旨を約束していましたが、そのまま奪われたため、三河に移り住みました。この時、旧事を忘れぬように姓を「伊奈」、通称を「熊蔵」と改称したといいます。

エピソード

雨中の大井川強行渡河を諫め止める

 天正18年(1590)三河国吉田(現豊橋)で、秀吉による大井・富士川の雨中渡河を諫め止める(『台徳院殿御実紀』)
  
  小田原攻めの際、豊臣軍の大軍が三河吉田(豊橋)に着いたときのことである。長く続いた雨により川は荒れ、強い風が吹き荒れる中、秀吉は急いで軍を進めようとした。そのとき、忠次は「風雨は烈しく、兵も疲れ切っている。しばらくここ(吉田)で滞在するべきです。」と進言した。すると、秀吉は機嫌を損ね、「兵法にも軍行前に川があり、雨になったときは速やかに渡らなければならないとある。この先の大井川や富士川など大河に水かさが増せば、進軍は難しくなってしまう。お前はどのような考えがあって進軍を止めろと言うのだ。」と叱り飛ばした。しかし、忠次は少しも恐れず「おっしゃるように急いで軍を進めるのは小軍のときです。40万にも余るこの大軍が渡河すると、少なくとも10名は流されるでしょう。すると、それが100人溺れたと噂として伝わり、味方の士気が下がります。戦いの時期はまだ迫っていません。どうか殿下しばらくの間、ここでとどまり、兵を休ませてください。殿下の武威により、すでに関東は殿下の勢力下のようなものです。1日の遅れが勝敗に影響するとは思えません。」と述べた。すると、関白は大いに感動し、「徳川殿はよい部下を遣わしたものである。」と言った。忠次の言葉通り、その夜は吉田に泊まり、3日間とどまったという。40万の大軍は皆疲労を休め、喜ぶこと限りなかったという。

城内穀物査検に機転を利かす

 天正18年(1590) 秀吉の命により、小田原城内の倉稟の計算をする(同上)

  後北条氏が滅び小田原城が落ちると、その蔵に収められている粟10万石の管理が徳川家に任された。すると、忠次がこれをすぐに請け取ったというので、(家康が忠次に)「これら量の分からない兵糧をどのように計算して、すぐに受け渡しが出来たのか。」と尋ねると、(忠次は)「確かにそうでございます。蔵に入り、包ごとに量っていたのでは、いくら日数を重ねても、その成果は得難いでしょう。たとえ、帳簿より多くあっても減らすことはできない。また、不足していたとしても増やすことはできない。そこで、豊臣家の役人と私で相談し、(蔵を)封印したままの状態で請け取りました。」と答えた。(家康は)大いに感心し、また秀吉もこれを聞き、「私に臣下はたくさんいるが、その才能で忠次以上のものはいない。」とし、「私に仕えれば禄万石を与えよう。」といったという。

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