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古代(古墳、奈良、平安)

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古代

古墳時代

 伊奈町では、薬師堂根遺跡・戸崎前遺跡・向原遺跡・大山遺跡等の古墳時代の集落遺跡が発掘調査されており、古墳時代には多くの人々がこの地域に暮らしていたことが分かっています。小針内宿に広がる薬師堂根遺跡では、古墳時代前期の竪穴住居跡が見つかっており、1辺が7~9mの大型のもの、1辺が6m前後の中型のもの、1辺が4m前後の小型のものと3つに大別されます。薬師堂根遺跡の東に隣接する戸崎前遺跡からも、古墳時代前期の集落跡が見つかっており、集落内の有力家長の墓と考えられている「方形周溝墓」が見つかっています。また、薬師堂根遺跡の西に隣接する向原遺跡からも古墳時代前期の集落跡や1辺10mを越える大型の方形周溝墓が見つかっています。
 このような住居の規模の違いや方形周溝墓の存在から集落内における階層文化が進みつつあったことが考えられます。周辺地域にも同時期の遺跡は存在しており、この地域一帯が古墳時代前期の人口集中地域であったことが分かります。また、それぞれの集落が、綾瀬川を望む大宮台地の縁辺部に位置していることから、綾瀬川が流れる沖積地を利用した稲作が行われていたことが考えられます。しかし、古墳時代中期の集落は伊奈町では確認されておらず、古墳時代後期の集落も大山遺跡で竪穴住居跡がわずかに見つかっているだけです。

奈良時代

 当時、全国は国・郡・里(郷)に行政区分されており、伊奈町域は武蔵国足立郡に属していたと考えられています。この時代の集落は、大小の河川とその周囲に拡がる沖積地を見下ろす台地の上に営まれ、それらが集まり村落を形成していたようです。承平年間(931~937)に成立したとされる百科全書『和名類聚抄』によると、武蔵国足立郡について、堀津郷・殖田郷・稲直郷・大里郷・郡家郷・余戸郷・発戸郷の計7郷の名を知ることができます。当時の伊奈町域は、殖田郷または稲直郷に所属していたと考えられます。
 人々は、古墳時代と同様に竈(かまど)を備えた半地下式の竪穴住居と平地住居の掘立柱建物を併用して暮らしていたと考えられます。伊奈町では発掘調査により、奈良時代の集落遺跡の存在がわずかに明らかにされつつあり、戸崎前遺跡や大山遺跡から8世紀中葉以降の竪穴建物跡が少数ですが検出されています。大山遺跡では古墳時代後期以降から継続して人々の生活は営まれていますが、町域全体の様相を見ると断続的であり、古墳時代前期ほどの人口ではなかったようです。

平安時代

 平安時代になると、町域のそれぞれの集落の人口は少しずつ増加したようです。綾瀬川右岸の向原遺跡やその東側に隣接する薬師堂根遺跡、さらにその東に隣接する戸崎前遺跡からは平安時代の竪穴住居跡が検出されています。また、原市沼川左岸の大山遺跡からは確実に平安時代のものとされる竪穴建物跡が23軒、赤羽遺跡からも竪穴建物跡が1軒検出されています。
 大山遺跡では、平安時代のものと考えられる円筒形の製鉄炉や登り窯状炭焼窯、煙道付き長方形土壙等の製鉄遺構が見つかっています。また、大山遺跡に隣接する赤羽遺跡や小室天神前遺跡からも登り窯状炭焼窯が見つかっており、大山遺跡で行われていた製鉄を周辺集落が支えていたことが分かります。
 人々の暮らしは、水田耕作だけではなく、漁撈も重要な位置を占めていたようです。戸崎前遺跡の竪穴建物跡(平安時代)から管状土垂が出土していますが、これは投網等の重りとして用いられたと考えられており、綾瀬川を利用した漁撈活動が行われていたことが想像されます。

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ファクス: 048-721-4851

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