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中世(鎌倉、南北朝・室町、戦国、春日氏と閼伽井坊、信仰)

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中世

鎌倉時代

 鎌倉時代の伊奈町は旧足立郡に属しており、この旧足立郡は治承4年(1180)10月に、源頼朝より足立遠元(あだちとおもと)へ郡郷領掌権(ぐんごうりょうじょうけん)が安堵されました(『吾妻鏡』)。足立氏は、武蔵国造または藤原氏の出自といわれる古代以来の名族で、遠元は桶川(現桶川市)や植田谷本村(現さいたま市)に館を築きました。嫡子の元春がこれを継ぎ、庶子の元重は淵江田郷(現草加市)、遠景は安須吉(あぜよし)(現上尾市)、遠村は河田谷郷(現桶川市)、遠継は平柳(現川口市)と、いずれも足立郡内に居館を置いていました。遠元は、平治の乱(1159)や治承・寿永の乱、奥州征伐(1189)に従軍し、鎌倉幕府の創建に貢献しました。また、文官としても幕政に関与しました。
 鎌倉幕府は、承元元年(1207)3月、武蔵守北条時房に武蔵国の荒野の開発を命じます。これに伴い、地頭足立氏は土地の開墾、道の整備、用水の確保、堤の修理を行い、この頃から伊奈に集落が形成され始めたと考えられます。このことを示すかのように、伊奈町域には綾瀬川に面した台地上を開発した相野谷遺跡(小針新宿)、戸崎前遺跡(小針内宿)などの集落が営まれ、渥美焼の壷や常滑焼の甕を使った新しい庶民層が誕生します。遠元の死後、嫡流の元氏ら一族は幕府に出仕しますが、次第に北条執権体制、得宗専制体制へ変質する北条氏の被官となりました。そして、元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府の崩壊により、足立氏は北条氏と運命を共にして没落します。

南北朝・室町時代

 元弘3年(1333)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、自ら政治の指揮を執りました(建武の新政)。その建武政権下で伊奈町を含む足立郡は、足利尊氏に所領として与えられました。この頃、伊奈町周辺では武蔵武士清久氏(きよくし)の活動が伺われます。清久氏は、現在の久喜市上・下清久一帯を本領とし、足立郡から隣の埼西郡にかけて勢力を有していた武蔵武士ですが、「中先代の乱」(1335)で尊氏に討たれたとされています。やがて、後醍醐天皇の政治に不満を持つ多くの武士を味方につけた足利尊氏は、建武政権を倒し、延元3年(暦応元年)(1338)、京の室町に幕府を開きました(室町幕府)。さらに、関東支配のために鎌倉に「鎌倉府」を置き、息子の基氏をその長官である「鎌倉公方」(かまくらくぼう)として派遣しました。
 このあと、関東は基氏の子孫が努める鎌倉公方と、その補佐官である関東管領上杉氏によって支配されましたが、その間、政権を奪われた後醍醐天皇を核とする南朝勢力との戦いや幕府の将軍と鎌倉公方との確執、上杉氏の内紛など大きな混乱が続きました。伊奈もこうした抗争の舞台となり、人々は動乱の時代に巻き込まれていったのです。

戦国時代

 享徳3年(1454)に勃発した享徳の乱や長享の乱での古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)と上杉氏の武力衝突を境にして、関東地方は長い戦乱の時代に突入しました。江戸城太田道灌は、上杉氏方の中心として活躍し、勢力を拡大しました。道灌の死後、その一族の太田氏は、岩付城主(現さいたま市)となり、その周辺の埼玉郡・足立郡・比企郡等(岩付領)を領有する地域城主として成長し、伊奈町域もその支配下に置かれました。岩付城主太田資正(すけまさ)は、越後(新潟県)の上杉謙信と結び、北条氏康・氏政父子と各地で戦いました。また、支配下の領内の町や村に地域支配を伝える多くの文書を残し、戦国大名的な領主としての足跡を伝えています。しかし、子息・氏資(うじすけ)による資正の岩付城からの追放や氏資の討死により、岩付領は北条氏政の直接統治下に置かれることになります。
 北条氏政は、伊奈町周辺の領主春日氏を重臣に起用し、領内に虎朱印状等の文書を大量に発行、当地域を強力に支配しました。検地の実施や寿能城主(現さいたま市)潮田資勝と大宮氷川神社の社領争いに裁定を下すなど、町域周辺にその足跡を伝えています。

春日氏と閼伽井坊(赤井坊)

 春日氏は、南北朝時代に桶川郷菅谷村(現上尾市)を支配した春日行元の子孫で、同地にある菅谷北城跡はその居館とも言われています。岩付城主太田氏の家臣となり、永禄2年(1559)頃、太田資正とともに北条氏康に従属しましたが、まもなく、資正と越後の上杉謙信の軍勢に加わっています。しかし、その後の氏資による父・資正追放に関わり、氏資やその後の北条氏政による岩付領支配を支える勢力となっていきます。
 春日氏の一族である景定は、小針内宿の領主で地内の「春日山」はその居館跡と伝えられ、桂全寺を再興したことでも知られます。天正5年(1577)頃から岩付衆を指揮する武将として活躍、天正10年(1582)には、北条氏政の命で太田備中守とともに軍勢を率い、徳川家康方と戦うため、上野国(こうずけのくに)箕輪城(現群馬県高崎市)方面に出陣しています。
 伊奈町丸山に所在した閼伽井坊(赤井坊)は、当地の有力寺院として知られています。伊奈氏屋敷跡は、天正19年(1591)徳川家康の家臣として入封した伊奈忠次が同寺を移転させ、その寺地に創建した陣屋跡ですが、後北条氏の城郭遺構である障子堀が存在し、戦国時代の城塞を転用したものであったことが推測されます。また、この城は丸山城とも言われ、岩付城の支城の一つであったと思われます。同寺が移された明星院(桶川市)には、弘治3年(1557)から天正8年(1580)に至る太田資正・氏資父子、北条氏政の発行した文書が計7点残されています。同寺の寺地に「立野」といわれる岩付城主の直轄の山林があったこと、村内の開発を同寺を通して行ったこと、周辺領主の内田氏との間で寺領を巡る訴訟があり、太田資正・北条氏政によって同寺を保護する裁定がなされていたことなどが分かり、戦国時代の伊奈町の社会が理解されます。

中世伊奈の人々の信仰

 平安時代以降の末法思想(まっぽうしそう)の広がりや相次ぐ天変地異や合戦の中で、人々は現世の利益と来世の往生を求めて、寺社を創建するとともに多くの仏像や板碑を造立し奉納しました。

仏像

 伊奈町域の仏像は、平安時代末期から現代まで各時代にわたり造立されたもので合わせて115組161体が確認されていますが、このうち古代・中世の仏像は13体です。
 尊像のほとんどは阿弥陀如来像であり、平安時代以来の極楽浄土への往生を希求する信仰の高まりに伴い造立されたものと思われます。

板碑

 板碑は、板石塔婆・青石塔婆とも呼ばれ、主として鎌倉時代から室町時代にかけて建立された卒塔婆の一形式です。死者の菩提を弔うため、また願主自身が生前に死後の安楽を願う逆修のため造立されました。
 正面には、主尊・建てた人の名前や名号、お経や仏像などが刻み込まれており、当時の地域の信仰の様子を知ることができます。
 武蔵型板碑は、関東地域に約3万基、県内でも約2万7千基が造立されていますが、町内では全90基が確認され、紀年銘を残すものは54基に及んでいます。

お問い合わせ

伊奈町役場生涯学習課文化財・町史係

電話: 048-721-2111(内線2543,2546)

ファクス: 048-721-4851

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