近世(村の成立、伊奈氏と伊奈町、伊奈の領主)
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近世
村の成立
天正18年(1590)関東に入国した徳川家康は、新たな領国の形成を目指して整備を進めました。このなかで、中世から人々の生活の場として存続していた郷村は解体され、近世の村々が成立していきました。
伊奈町域の初期の様子は、史料が残されていないため不明ですが、正保元年(1644)幕府が全国に命じて作成させた国絵図によると、町域には11の村名が確認できます。このうち、小貝戸・我良山(柄山)・山田(本)・別所・丸山・小室(小室宿、宿)・柴・中荻の8か村は、近世を通じて旗本伊奈氏知行地であったため、小室郷8か村と呼ばれ、支配はもとより生活の場としても後々までまとまりを残しています。
小室以外の大針・小針・羽貫の3つの村のうち、小針村は元禄期までに小針内宿・小針新宿の2村に分かれ、以後幕末まで町域は12村のままです。なお、これら国絵図・郷帳や『新編武蔵風土記稿』等には現れない村名もあります。特に小室領内には中嶋・篠崎・浅間原・谷畑・辻と多くの村名が見られますが、その変遷は不明です。なお、文政11年(1828)成立の『新編武蔵風土記稿』によると、これら12村には計635戸の家があったと言います。
伊奈氏と伊奈町
伊奈氏と伊奈町の関係は、徳川家康の家臣伊奈忠次が、天正18年(1590)の家康関東入国に際し、小室・鴻巣に所領1万3千石(1万石とも)を与えられ、翌19年小室郷(伊奈町大字小室字丸山)に陣屋(現伊奈氏屋敷跡)を構えたときに始まります。ここを拠点に忠次は、代官頭として利根川流域の治水・灌漑工事、検地、新田開発、年貢収取、中山道その他の宿場の整備など、江戸幕府の関東支配の基盤を築きました。慶長14年頃には、小針領家村(現桶川市)から高虫村(現蓮田市)にかけて備前堤を築き、綾瀬川の流量を減少させ水害から守るなど、伊奈地域の民生の安定や生産力の向上にも大きく貢献しています。
慶長15年(1610)忠次が死去すると、忠政・忠勝と跡を継ぎますが、忠勝は元和5年(1619)わずか9歳でこの世を去り、願成寺(伊奈町大字小室)に葬られました。このため、忠次の直系は断絶し、領地は没収されたものの、忠次の偉大な功労が認められ、忠勝の弟忠隆に陣屋そのまま小室郷一円(1180石余)が与えられ、新たに旗本として取り立てられました。以後、忠隆の子孫が幕末まで小室郷の地を支配し、明治元年(1868)に武蔵知県事の管轄となり、埼玉県となって現在に至るまで、幾多の変遷を経ながらも、伊奈氏の事績は町民の心に刻まれ、今日に至っています。
伊奈の領主
小室領は、大名から旗本への変動があったものの、近世を通じて伊奈氏が支配しました。しかし、それ以外の地域では支配の変遷が見られます。まず、小針村と羽貫村は天正18年(1590)に岩槻藩主高力氏の領地となります。高力氏が元和5年(1619)に浜松に転封すると、両村とも天領(幕府直轄領)になります。その後、岩槻城主となった阿部氏が寛永元年(1624)に加増されると、両村は再び岩槻藩領となり、阿部氏が天和元年(1681)宮津に転封になると、天領に戻ります。
大針村は、元和5年(1619)伊奈忠勝が幼くして亡くなってしまったため収公され、天領となりましたが、寛永10年(1633)に伊奈忠次の4男忠公(幕府代官)の知行地となります。しかし、その子忠易が元禄2年(1689)に職務不良によって罷免されたため、再び収公されます。
このように、小室領以外の町域はすべて天領となりましたが、元禄・宝永の地方直しで、再び旗本等に与えられます。まず、元禄10年(1697)小針新宿村が旗本荒川氏の、小針内宿村が旗本春日氏の知行地となり、翌元禄11年(1698)に大針村が旗本木下氏の、羽貫村下分が旗本布施氏の知行地となっています。
残る羽貫村上分は宝永2年(1705)に高家の戸田氏の知行地となり、以後明治維新で上知されるまで、町域の領主の変更はありませんでした。なお、町域の寺社の内、無量寺(60石のうち45.96石)、法光寺(10石)、桂全寺(5石)に朱印地が与えられていました。
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伊奈町役場生涯学習課文化財・町史係
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