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伊奈町

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県指定記念物(史跡)伊奈氏屋敷跡

[2020年2月28日]

ID:3733

【ふりがな】いなしやしきあと
【名  称】伊奈氏屋敷跡
【所 有 者】埼玉県ほか
【所 在 地】小室280番地ほか
【概  要】
 関東郡代伊奈氏の祖、伊奈熊蔵忠次の陣屋跡です。屋敷跡には当時を偲ばせる土塁や堀・道路などが現存しているとともに、「表門」「裏門」「蔵屋敷」「陣屋」などの名称が残っています。昭和59年の発掘調査により、障子堀が見つかっています。
(長軸約750m 短軸約350m 楕円形丘陵)

伊奈忠次について

 伊奈氏は、信州伊那(長野県)の出身で、忠次の祖父忠基の代に徳川氏に仕え、三河国小島(愛知県西尾市)の城主となりました。三河一向一揆に加担して徳川氏を一時離れますが、本能寺の変を機に忠次は家康に仕え、近習として農政・民政に力を発揮しました。豊臣秀吉の小田原攻めでは、主君家康の命を受け、道路の普請・船橋整備・軍勢の兵糧輸送などにあたり、軍功をたてました。

 天正18年(1590)家康の関東入国に従い、三河国小島の旧領と、武蔵国小室・鴻巣領の1万3千石(1万石とも)を拝領し、翌19年この地に陣屋を構えました。のちに従五位下備前守に任ぜられ(大正元年正五位を追贈)、検知の実施、中山道その他街道宿駅の整備、加納備前堤・川島大囲堤の築堤など、忠次は伊奈氏屋敷跡を拠点にして、関東各地にわたる治水・土木・開墾等の事業を行うとともに、代官頭として関八州の天領(幕府直轄領)支配に貢献しました。さらに慶長12年(1607)頃には、江戸の将軍秀忠の政権中枢に参画し、広範な権限を持つまでに至りました。

障子堀について

史跡

 通称「裏門跡」より発掘されたものです。「障子堀」の名称は、一般的に形が障子の桟のように見えることから呼ばれていますが、「衝立」(ついたて)、「遮る」の意味もあります。障子堀は後北条氏の城郭遺構で、中世(戦国時代)に城や館に設けられた堀の一種であると言われています。現在は埋立て保存がされています。

お問い合わせ

伊奈町生涯学習課文化財・町史係

電話: 048-721-2111(内線2543,2546)

ファクス: 048-721-4851

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